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ANTの周りには被爆者も被爆二世も普通にいます。それが広島という街なのです。人類史上初の被爆都市・広島で発足した、私たち「ANT-Hiroshima」。それは偶然ではなく必然です。ヒロシマから世界へ。市民の、個人の、一人一人の小さな力を出しあって、平和の架け橋を築いていきたい。ヒロシマは、私たちの、そして世界平和のホームグラウンドなのです。

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Tomokoのつぶやき
~私の“たからもの”~
(講演活動のこと)

ANT通信より(2006年11月発行)

 1年を通して、かなりの頻度で広島県内の小・中・高校に講演に出かけている。講演内容は平和教育・国際理解教育・人権教育,あるいは先生方の研修など、各々の学校の事情によって異なっている。
出来るだけ事前に担当の先生方と打ち合わせを重ね、「ねらい」を明確にして、子ども達に最もよくわかる形を模索する。ANT-Hiroshimaの活動の映像,写真を使って新しい教材を作ることも多くある。そういった準備をもとに、出来るだけ双方向の参加型授業・講演を心がけている。
ここまで書いてくれば、皆様には、私が自分の時間,エネルギー,能力をこの学校での授業・講演にかなり費やしていると理解して下さると思う。「何故そこまでするの?」と尋ねられることがある。答えはひとつ、私の“たからもの”がそこに在るからだ。子ども達を前にして、まがい物は通用しない。「本当に伝えたいことがあってここに在る」という私の情熱こそが、子ども達との架け橋になる。ひとたび橋が架かると、思いがけない本質をついた質問がくる。私は心を裸にして、ありのままを素直に語る。良いことも悪いことも…。そして、最後に子ども達に必ず呼びかけている。
「一緒にやろうよ。願いや想いがあるならば、勇気を出して一歩踏み出そう!私もそうしてきたし、これからもそう在り続けたいから。」と。
先日、私のもとに届けられたこの“呼びかけ”への応えの1つを皆様にご紹介しようと思います。

『今日は、おいそがしい中、貴重な話をしていただきありがとうございました。世界各国を訪れ、いろいろな人たちに平和の大切さを訴え続けた渡部さんの話を聞いて、悲しさや苦しみの中にこぼれる笑顔が心にうかび、その笑顔の裏にある痛み,悲しみ,苦しみが心に強く伝わりました。そしてその笑顔を本当の喜びの笑顔にかえようとしているANTのみなさんの強い気持ちは強く心に響きました。
国境をこえても助けあう、友情が国や文化や宗教などをこえて考えることが今日一番そのことが心に残りました。この気持ちをいかし、いじめやけんかなどの身近なことからなくせるように周りで声をかけ合い、1人1人の気持ちを変えていき、1人1人を大切にする、そんな学年を作り上げていきたいです。今日は本当にありがとうございました。』(原文そのまま引用)

 祗園東中学校で講演をした後、学年代表の男子2名からもらった言葉(紙に書いたものを一生懸命、読みながら伝えてくれた)です。
私にとって、本当に大切な“たからもの”であり、この“たからもの”のおかげでしっかりと自分を振り返ることが出来、心新たにして明日への一歩を踏み出すことが出来るのです。「ありがたいこと♪」であり、そしてこれこそが私の元気の素!!
「ともこさ~ん!」そう呼んで手を振ってくれる子ども達に、これ以上は無理だと思うほどの笑顔で、手を振り返す私がいるのです。 (^O^)/

祗園東中での写真ではないのですが…、講演はこのような感じで行われています

「ご縁」と「めぐりあわせ」から始まった出会いが、
いつしか「国境を越えたチーム」に。
出会いに感謝。そしてチームを担う若い世代のみんなに感謝!

ANT通信より(2006年5月発行)

 この頃“不思議なめぐり逢わせ”に生かされている私を感じることが度々ある。学校や公民館などで私の経験をお話しさせていただく機会が多い。よく「どうしてパキスタンやサラエボへ行くようになったのですか?」と尋ねられ、「かくかくしかじかで…」とお答えするが、そのように話している私自身が、これは『ご縁』『めぐり逢わせ』としか言いようがないと感じている。この『ご縁』が嬉しくてたまらない。そして『めぐり逢わせ』の醍醐味にすっかりはまっている。

 プロジェクトをつくり運営していくことは大変なエネルギーと忍耐力がいる。体力・気力が共に備わっていないと実施は難しい。このすべてのことを私は『ご縁』と『めぐり逢わせ』からいただいている。心底ありがたく、幸いな人生であると感謝している。だからこそ若い人に「一緒に行こう。一緒にやろう。」と笑いながら声をかけ巻き込んでいっている。

 シャムシャトーのアフガン難民の学校の先生たちが言ってくれた。「私たちはチームだ。リーダーは朋子さんだよ。」と。この言葉ほど今回のパキスタン訪問で嬉しかったことはない。そう私たちは“国境を越えた大きなチーム!”,自分たちの足で立ち自分たちの手で暮らし,生活をつくりだしていくチームなのだ。私たちを支えているのは「友愛」と「信頼」しかない。これ以上にこの世界で頼れるものはないと私は確信している。

 シャムシャトーのアフガン難民キャンプで診療を担当してくれた女性医師Dr.ルビナに尋ねられた。「朋子はどうして遠いヒロシマからここへ来たの?」と。彼女にとってみればとても不思議なことなのだと思う。私はまず「ヒロシマ」について説明した。そしてヒロシマの市民の並々ならぬ努力を得てヒロシマが復興したことを伝え、同時に私が被爆2世であることも話した。「初めてここに来た時60年前のヒロシマの人々とこのシャムシャトーの人々とが重なって見えたんよ。もしヒロシマも世界の人々から見捨てられていたら、このシャムシャトーの人々と同じ境遇だったと考えると何とか力になりたいと思ってね。」言葉を交わしていく内にDr.ルビナの瞳は輝き「朋子、何としてでも毎週ここに来て患者さんを診察し私の全力をつくすわ」と約束してくれた。

 JICAとの市民参加協力事業は本年の3月末に終了したが、ANTとHOPE’87とが協働して今もなお毎週土曜日のヘルスユニットでの診察は続いている。初日28人だった患者は現在60人となっている。忙しく働くDr.ルビナの姿が目に浮かぶ。Dr.ルビナの心を捉え、彼女を積極的にこの仕事に立ち向かわせているものは「ヒロシマの力」だと思う。
ご縁と言えば、ANTは「平和貢献NGOs」の構成員にもなっている。一昨年誕生したばかりの平和貢献を目指すNGOのネットワーク組織である。「1人では出来ないことも皆が力を合わせればやれる」の精神でインドネシアの津波の被災地の復興支援に取り組んだ。

 今度はパキスタン地震の生活復興支援を目指す。平和貢献NGOsとANT-Hiroshimaのパートナープロジェクトだ。現地調査のため、4月21日~29日までANTから藤井富美さん,原田智佳さんという2人の若い人材をパキスタン ムザファラバードへ派遣した。走りながら土台を固め、土台を固めながら将来のビジョンをつくるといった現状の中で、皆が歯を食いしばって頑張っている。今またここにセクターを越えた大きなチームが誕生しようとしている。
このチームの大きな力は若い世代が担っている。ともこありはそれが嬉しくて嬉しくて、ついついまた「若い力と感激に~~♪」と手を振って歌いながら歩き回っているのだった。


~被爆60年目に寄せて~
『国家と国家の関係はすぐに壊れるが、
人と人とのつながりは永遠である』。

ANT通信より(2005年11月発行)

 被爆60年目のここ広島で、数々の忘れられない「出会い」があった。「出会い」の数ほど別れがあり、その際には必ずと言ってよいほど涙がこみあげてくる。「この頃、涙もろくなったのかしら…」と、自問自答してみる。
心に深く刻まれる「出会い」のうしろには、私たちの想像を超える紛争・貧困・家族の離散など、今の世界をとりまく様々な絶望的状況がある。その厳しい状況の中で生きる人々を、広島に生まれ育った私達がどのように迎え入れ、理解し、慰め、対話し、援助出来るのか…。被爆の実相を伝えていきながら同時に彼らの悲惨な体験にも耳を傾けるうち、次第に言葉を失い、ただただ彼らの肩を抱き、手を握っている自分に気付く。

 不条理な世の中、愛する者を暴力的に奪われた人々の心にある強い憎しみや怒りを、どのように受け止めればよいのか。小さな1匹のアリ(自分)に出来ることは、『まず、心からの笑顔で人々を迎え入れ、声を掛け、くつろいでもらう。我が故郷に帰ってきたように』。そして、全身全霊でその体験を聴き、想像すると同時に、私達の側は被爆の実相を伝え、その後を生き抜いた多くの被爆者の生き様を紹介していく。また、被爆者の思いを受け継ぐ私達が、どのような思いでどのように活動をしているのかを知ってもらうことが何よりも大切である。そうすることで、彼らは私達に深い共感を寄せてくださるようになる。共に語り合い、笑い、泣き、飲食を同じくすることで、私達は互いに忘れ難い友となる。美しい自然の中で語り合うことが出来れば、何よりの慰めともなる。

 再会を誓いつつの別れは、互いに笑顔と涙でぐしゃぐしゃ。でも、この別れは終わりではなく始まりなのである。『私達は、力をあわせて世界を変えたいのだ!』という思いの…。

 人と人との信頼という絆の上で、共に力を合わせ励まし合いながら憎しみを乗り越える道を模索し、『世界を変えたい!』を目標に協働する。歩みはアリのようだけれど、志は高く。その縁を絶やすことなく、今度は私がその地を訪れさらに友情を深めていきたいと思う。

 アフガンの映像作家サイフィさんは言う。『国家と国家の関係はすぐに壊れるが、人と人とのつながりは永遠である』と。被爆60年目のヒロシマは、改めてこの言葉を実感する機会を私に与えてくれた。そして、何より嬉しくありがたいのは、多くの日本にいるありんこ達が様々なプロジェクトに全力で取り組んでくれ、それをスタッフ一同が懸命に支え、皆、笑顔が絶えなかったことだ。

 多くの皆様の思いに深い感謝をしつつ、このハーモニーこそがこれからの希望なのだと実感しているTomokoアリなのであった…。


日本の若者と同じように、おしゃれし、
ボーイフレンドの話をするサラエボの少女たち。
日本の若者と違うのは「戦争を体験した」という事実…。
〜ウィーン•サラエボ日記〜

ANT通信より(2005年1月発行)

2004年10月8日~21日まで、私は娘の智子と共にウィーンとサラエボを訪れた。
ANTはオーストリアのウイーンに本部のあるHOPE’87というNGOと2000年より協力関係にある。今回の旅の大きな目的は、10月13日のHOPE’87の総会に出席し、理事長他の役員の方々と話をし、世界各地の支部長の皆さんと面談することであった。
古く美しい宮殿の中の一室で、始まった総会ではHOPE’87がオーストリア政府、ウイーン市、国連、そして企業との有益な関係の中で活動を続けていることが実感できた。また、セネガル、バングラディッシュ、サラエボなどの支部長の皆さんたちと互いに各国の状況を伝え合いながら良い人間関係を築くことができたのも、大きな収穫だった。
HOPER’87の理事長は、オーストリアの国連大使Thomas STELZER氏である。総会の翌日、ウイーン国連本部にThomas STELZER氏を訪ね、ANTについて、「ヒロシマ」について1時間余り話しをした。
Thomas STELZER氏はNGOの大小、バックグラウンドの違いを超えて、互いに持てるものを出し合い「平和と人間の安全保障」のために働くことは、まるで美しい音楽を演奏するようだと表現された。私も、ANTとHOPE’87の協働は、人と人の信頼を土台にハーモニーを大切にしながら「人々の笑顔」というゴールを目指して一歩づつ着実に進めて行くことだと思っている。
サラエボは10年前に「民族浄化」という名前に象徴される市民戦争が3年余りにわたって繰り広げられた都市である。隣り合って住んでいたセルビア系とムスリム系の人々が、互いに無差別に殺し合い、町を破壊した。その傷跡は、町の中にも、人々の心の中にも深く残っている。以前この市民戦争をテーマとしたテレビドキュメンタリー番組の中で、サラエボの人々が自分たちの戦争中の苦しみ、辛さ、生命を奪われる悲しみを互いに「ヒロシマ」だと語り合うという場面を見て、私は是非一度この町を訪ねたいと願っていた。また1999年にヒロシマで開催された「オーガストinヒロシマ」という世界音楽祭の縁で、サラエボフィルハーモニーの指揮者エミール・ヌハノビッチ氏とは、旧知の間柄である。彼が音楽を通してのサラエボとヒロシマの交流を強く望んでいることもずっと心に残っていた。
私たちは、10月15日の朝、HOPE’87のサラエボの支部長のフィッコ・カルキン氏の運転する車でウィーンを経ち、陸路サラエボへ向かった。オーストリアの国境を越え、旧ユーゴスラビアの領内に入る。のどかで美しい風景が続く。そう道も悪くない。がしかし、小さな国々に分離独立した人々は、互いに理解しあっているはずの互いの言葉を、まるでさっぱり分からないように国境で装う。そして国境を越えていくたびに、小さな声で互いの悪口を言う。ボスニア・ヘルツェゴビナの国境は美しい川のそばにある。あの橋を渡れば、ボスニアというところで車が急に渋滞にはまった。細い一本道に両方から車が侵入し、互いに譲り合わない。いつまでたっても動けない。小さな隙間にどんどん車が入り込み、ますます状況は悪くなる。私は思わずつぶやいた。「これではまた戦争は起きてしまう。」フィッコ氏は言う。最近の選挙で民族主義を唱える政党が勝利してしまったと、暗い影りがその表情に出て、そして「私たちに何ができるというのか」と両手をあげて嘆く。
サラエボの町は美しい。古い町並みの残っているところは、日本の昔の町並みの佇まいと似ていて、どこか懐かしい感じがする。郊外の森は美しく、水はヨーロッパ一の品質という。私は幾度となく「この水はボスニアの宝物」と話した。ボスニアの音楽を聴きながら、ゆったりとトルコ式のコーヒーを飲み、美味しい料理をほおばっていると、この地が長い歴史の中で民族が融和し、多様な文化が混ざり合って豊かな文化を育みながら、人々が暮らしてきたことが実感できる。
このサラエボである日突然戦争が始まった。セルビア系の人々が丘の上から爆弾を落とし、同じくスナイパー達が生命ではなく、手足を狙ってゲームのように無差別に人々を撃つ。仲良く暮らしていた人々が、戦争が始まるとセルビア人だからと銃を持って丘の上に登り、かつての隣人を撃つ。市民戦争の実態は無残だ。水を求めて人々は命がけで川へ走り、トンネルを掘って物資を補給する。町の中にはまだ銃痕の残った建物が数多く残り、現在失業率は40%という。
この街でイザンナ、ハズラという21歳、17歳の少女に会った。日本の若者と同じようにおしゃれし、ボーイフレンドの話をし、日本への憧れを話し、将来の自分へのとまどいと夢も話してくれる。素敵な少女たちだ。ある日私の娘と彼女たちが連れ立って出かけた。そして帰ってきて娘が私につぶやいた。「母さん、私は今夜こう言われた。あなたラッキーだ。戦争を知らないから、と。私はとてもショックだった。」イザンナとハズラは戦争中、どんな暮らしをしていたのか、美しい横顔で丘の上の白い墓を指差しながら話す2人の少女たちを見ながら私は想像した。
また、スナイパーに足を奪われた24歳の青年に会った。「あなたの夢はなんですか?」「僕は現実的な人間です。夢はないんです。よい仕事とアパートが欲しいです。」そう言って自分の右足を見せてくれた。義足だった。この坂の町で、古いアパートでこの青年が生きていくのはどんなに大変か、彼には罪はない。
フィッコ氏が一枚のCDをかけてくれた。ALISA SELMAとい24歳の女性の歌うアメージング・グレースとホワイトクリスマスの2曲だった。心を揺さぶられるようだった。深い悲しみと、悲しみの中にある祈りと、絶望に近い叫びと、表現しきれない。市民戦争が終わり、生き延びたALISAは軍隊が残した麻薬に心身をむしばまれ、閉ざされた療養所で、日々麻薬中毒と闘いながら暮らしている。生き延びたのに、今を生きることができない。
市民戦争を生き抜いた子供たちは10年後の今は若者になっている。手足を奪われ、心に深い傷をおったこの若者たちは戦争犠牲者。そしてこの過酷な自分の人生を生きていかなければならない。
サラエボフィルハーモニーの指揮者、エミール氏とも再会した。彼は心から私たちを歓迎し、オーケストラの人々もあたたかかった。彼らは戦争中も演奏を続けたという。そして今オーケストラの団員は意図的に様々な民族、国の人々から構成されている。そして毎年のように世界オリエンタル音楽祭を開催し、意欲的に新しい音楽作りに取り組んでいる。
サラエボの町はようやく建物や道路や外から見えるものは復興しつつある。しかし、人の心の傷や闇は置き去りにされたままである。それどころか、このままではあのような戦争が再び起こるのではないかとも思わせる政治状況だ。サラエボから学び、サラエボと共に私たちは何をすればよいのか。サラエボは忘れられない町となった。

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